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古河公方  足利成氏(しげうじ)

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古河公方公園(古河総合公園)内にある古河公方館跡

関連施設・史跡
古河公方館跡
■駅から
約3Km 徒歩40分
■所在地
古河公方公園(古河総合公園)
鴻巣字中山399-1
TEL0280-47-1129


古河地方は、鎌倉時代、源頼朝の家臣、下河辺氏がこの地を支配し、幕府の北の守りとして軍事上政治上にも重要な地点として栄えてきました。やがて室町幕府の時代となり、足利尊氏(たかうじ)の子基氏(もとうじ)が関東かんれい管領(鎌倉公方(くぼう))となって、関東を支配していましたが将軍家との折り合いが悪くなり、四代持氏(もちうじ)が永享の乱で将軍義政と争い、一度敗れたが許され、その子成氏(しげうじ)が再び管領となったものの、執事上杉憲忠と対立、追われて1455年に鎌倉から古河に居城し、古河公方と称しました。結城・佐竹氏を始め関東の豪族の支持を受けたので、形勢は一変、古河は関東の政治文化の中心地となり、古河公方時代が5代128年にわたって続きました。歴代の公方達は、古河に鎌倉文化を移入しました。その規模は鎌倉には及ばなかったが、古河の文化も大いに進み、文化人も数多く集まり、中でも医聖と呼ばれた医師田代三喜や当代一の連歌師と言われた猪苗代兼栽などは、この地に文化興隆をもたらした功労者と言えます。


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足利義氏(よしうじ)とその子氏女(うじひめ)

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義氏の墓所徳源院

時代も干余曲折を経て、戦国の世に入り、関東も戦乱に明け暮れ、5代義氏の代になると、後盾となっていた北条氏も秀吉に亡ぼされ、公方の名を僅かながら、保ち得た状況となってしまいました。
 1582年、義氏が歿すると、男の嗣子がないために、一世紀を越えた古河公方時代も、5代をもって終わりを告げました。
 義氏には、女子一人が在り、これを氏女(うじひめ)と言いました。氏女は鴻巣の公方やかた館に居を置いていましたが、秀吉は、公方の名跡の絶えるのを惜しみ、小弓義明の孫國朝に氏女を娶らせ、喜連川の地五千石を給し、その再興をはからせました。國朝の病死により、秀吉の命で弟頼氏に氏女を配し、氏女は、義親を生みました。公方の血統は斯くして喜連川家に継がれていきました。今、鴻巣公方館跡の辺りは、古河公方公園(古河総合公園)として残され、昔の面影を僅かにとどめる自然公園として賑わいを見せています。

関連施設・史跡
徳源院
■駅から
約3Km 徒歩40分
■所在地
古河公方公園(古河総合公園)
鴻巣399-1
TEL0280-47-112


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徳川三百年の智臣  土井利勝

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正定寺で管理されている肖像画

関連施設・史跡
正定寺 土井家歴代の墓所
■駅から
約0.9Km 徒歩11分
■所在地
大手町7-1
TEL0280-22-1273

家康が江戸幕府を開き、天下の政治をとるようになると、古河は奥州街道筋と水路の要地となり、北の守りとして重要な位置を占めるようになりました。そのため、古河藩主には有力な譜代大名が配置されました。幕末までに11家 12回の交替がありましたが、皆徳川家と深い関係のある譜代大名で、幕府の官僚に列し、大老や老中、大阪城代などの重職に就任したものが大勢います。中でも土井家は、2期12代わたり、古河城主として城下の発展に寄与し、古河の繁栄の基を築きました。
特に、利勝は、・土井の殿様、一六萬石よ・と甚句にも歌われている程、歴代城主の
中でも最高の禄高で、三階櫓などを築いて古河城を最大に拡張し、幕閣最高の大老職まで勤め、徳川三百年の確固たる基礎を築いた智臣として、歴史上の有名な人物でもあります。
市内の正定寺は、利勝開基によるもので、今は土井家の廟所になっています。


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雪の殿様  土井利位

画像(133x180)

正定寺で管理されている肖像画

関連施設・史跡
正定寺 土井家歴代の墓所
■駅から
約0.9Km 徒歩11分
■所在地
大手町7-1
TEL0280-22-1273
歴史博物館 雪花図説
■駅から
約1.2Km 徒歩15分
■所在地
中央町3-10-56
TEL0280-22-561

土井利位は20年にわたり観察した雪の結晶を「雪華」と名付け、天保3年(1832)その成果86種を収録する『雪華図説』を刊行しました。同11年に刊行される『続雪華図説』と合わせ、利位によって著された日本最初の雪の自然科学書として高い評価を得ています。
 寛政元年(1789)5月、土井利徳の四男として、刈谷(現愛知県刈谷市)に誕生しました。
刈谷の土井家は、始祖利勝の次男利長にはじまる分家で、刈谷時代の利位を知る手がかりは、「部屋住」の身ゆえか、ほとんど伝わっていません。
 嫡子でなかった利位に大きな転機が訪れたのは、彼の25歳のときでした。本家にあたる古河藩主土井利厚の養子に迎えられ、このときはじめて、学問・芸術にたいする彼の資質を開花させる機会がおとずれたといえるでしょう。
 文政5年(1822)、34歳のとき、利位は、養父の死去にともない家督、古河藩8万石を襲封。以後、彼は、天保5年(1834)から同8年まで「大坂城代」を、同年「京都所司代」、翌年には「江戸城西之丸老中」と、幕府の要職を歴任しています。
 天保10年(1939)本丸老中に昇進、水野忠邦を助けて天保改革に尽力。同14年、改革の失敗から失脚した水野忠邦のあとをうけて老中首座となり、幕府財政の再建につとめました。翌年、老中を辞任した利位は、藩領を巡村、古河藩政改革をおこないました。嘉永元年(1848)、60歳で病没。

▼正定寺 土井家歴代の墓所 【大手町7-1】

▼歴史博物館【中央町3-10-56】


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蘭学者  鷹見泉石

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渡辺崋山(かざん)筆  国宝『鷹見泉石像』東京国立博物館

鷹見泉石は家老として、藩主土井利位(としつら)に仕えた古河藩士。利位が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたるなど、大きな働きをしました。また、優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたりました。
十郎左衛門忠常といい、泉石は引退後の名前です。
天明5年(1785)6月29日、土井氏代々の家臣、鷹見忠徳の長男として、当時、四軒町といったこの地に生まれました。
11歳より藩主土井利厚・利位の二代に仕え、ついには江戸家老に進み敏腕をふるいました。
とりわけ藩主利位の「大塩の乱」鎮定・京都所司代から老中への昇進と幕政参画など、その陰にはつねに泉石の補佐が与って大きかったのです。
 蘭学(らんがく)を志し、利位の『雪華図説(せっかずせつ)』の刊行をたすけ、晩年、自らも日本初の『新訳和蘭国全図』を出版しました。かたわら、学者・文化人と広く交わり、オランダ商館長よりヤン・ヘンドリック・ダップルの蘭名を贈られ、開明的外国通といえます。
安政5年(1858)7月16日、古河長谷の屋敷で73歳で没しました。
市内横山町の正麟寺(しょうりんじ)に眠る。

 渡辺崋山(かざん)筆の国宝『鷹見泉石像』は、よくその姿を伝えています。渡辺崋山は愛知県の小藩であった田原藩の藩士、蘭学に熱心で、泉石とは兄弟弟子でした。その崋山が画家として残した肖像画の一つが、「鷹見泉石像」です。今では崋山の代表作として、国宝に指定され、東京国立博物館に展示されています。


関連施設・史跡
鷹見泉石記念館 
■駅から
約1.2Km 徒歩15分
■所在地
中央町3-10-56
TEL0280-22-561


画像(240x144)・拡大画像(600x362)

鷹見泉石生誕の地碑

鷹見泉石生誕の地碑
■駅から
約0.9Km 徒歩12分
■所在地
中央町1丁目10

正麟寺 鷹見泉石の墓所
■駅から
約1.3Km 徒歩16分
■所在地
横山町3-6-49
TEL0280-23-0551

▼鷹見泉石記念館【中央町3-10-56】

▼鷹見泉石生誕の地碑【古河一小北側】

▼正麟寺 鷹見泉石の墓所【横山町3-6-49】


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智徳・仁義を知る武将  鮭延(さけのぶ)秀綱

関連施設・史跡
●鮭延寺
■駅から
約3Km 徒歩40分
■所在地
大堤1037
TEL0280−32−6905

昔の古河藩領の大提に鮭延寺という寺があって、そこには、鮭延秀綱という武将の墓があります。
 鮭延氏は、出羽山形の城主最上家七十万石の家老で、1万5千石、智徳・仁義を知る武将で、最上家の内紛により、国を離れ、幕命によって、秀綱を慕えて追從して来た家臣十数名と共に利勝に預けられました。
 秀綱は、利勝の温情により賜った五千石を、皆家臣に分け与えた、自分は無祿となり、家臣を励まし余生を送ったと言います。没した時、家臣らが此処に一寺を建立し、殿の姓をもって寺号とし、鮭延寺としたと言う。近世武士の真髄をひしひしと身に感じさせる話ではありませんか。


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陽明学者  熊沢蕃山

画像(133x180)

熊沢蕃山の肖像

関連施設・史跡
●鮭延寺
■駅から
約3Km 徒歩40分
■所在地
大堤1037
TEL0280−32−6905

戦国の世が去って、平和の到来と共に、幕府は力をもってする武断主義をやめ、文教を興し、法律制度によって社会秩序を保とうとする文治主義をとるようになりました。その時、幕府・諸藩が最も力を入れたのは儒学でした。幕府は、儒学者を庇護し、学問を奨励しましたが、幕府が奨励したのは朱子学で、もう一方の陽明学は、幕府の政策とは相容れず、これを唱えていた熊沢蕃山は、見識高き政治家であり、経済学者であり、更に文学者、大教育家にも拘らず、幕府の忌畏に触れ、禁固を命ぜられ、明石の松平信之候に保護されました。その後信之が老中となり、古河城に移った時に蕃山も古河に移り、子の忠之が引継ぎ、その死を見とるや、儒礼をもって丁重に鮭延寺に葬ったと言われています。
 蕃山が古河に執居の間、蕃山の知識が洪水や農業に生かされ、数々の貢献を残しています。


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義経の愛妾  静御前

関連施設・史跡
●光了寺 寺宝として静の遺品
寺宝をご覧になるには予約が必要です。
■駅から
約4.8Km 徒歩1時間11分
■所在地
大字中田1334
TEL0280-48-1850

「静御前終焉の地を行く」

源義経についての記録は多いが、愛妾“静”についての史料は甚だ乏しいのです。義経を慕って鎌倉を出て、奥州へ向かうまでの記録は見られますが、その先は全く不明です。しかし、伝承としては、古河近辺が終焉(しゅうえん)の地とされています。奥州へと出立した静が、病いを得て遂に目的を果たせず死に至った地が古河周辺と伝えられています。
古河市内旧日光街道中田宿にある光了寺(こうりょうじ)に、宝物(ほうもつ)として静女の守本尊、蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣(まいごろも)、義経形見(かたみ)の懐剣(かいけん)、鐙(あぶみ)など貴重な遺品数点が蔵されています。
光了寺は元は久喜市(旧栗橋町)にあり、静を葬ったので、その遺品が寺宝として保存されています。その一つが「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」。後鳥羽院の寿永2年に大変な日照りに見舞われ、高僧を招き雨乞いをしても雨が降らないので百人の舞姫を集め次々に雨乞いの舞を舞わせ百人目の静が踊ろうとした時、天皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、たちまち大雨が降ったという。この衣が「蛙蟆龍の舞衣」で、今も光了寺に保存されています。
隣町の駅前(JR宇都宮線栗橋駅)に静の墓があり、古河市内下辺見(しもへみ)には、義経の死を耳にし、橋の上で奥州行きを思案したと言われる思案橋、古河市水海(みずうみ)には、静結びの柳、静の椿などの遺跡があります。


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西洋医学の先達 日本医学界の立役者

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河口信任旧居跡

河口信任(かわぐちしんにん)1736〜1811
 古河藩医。唐津城下に生まれる。(当時の土井家は唐津藩主)。長崎にて蘭方医学を学ぶ。 
 1770年、京都所司代についていた藩主土井利里の許可をうけ、京都で屍2体・首1級の解剖をおこない、その観察記録をもとに翌々年、解剖書「解屍編」を刊行する。


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伝統絵画から虚画まで個性派天才絵師

河鍋曉斎(かわなべきょうさい)1831〜1889
 幕末・明治の絵師。古河城下の商家に生まれる。幼くて父と江戸に移る。
 浮世絵・狩野派を学ぶ。デッサン力にとみ虚画・風刺画もよくする。英国人建築家コンデール(東京帝国大学教授)が門下生となり、ヨーロッパでも高い評価を得ている。大英博物館(イギリス)などで展覧会を開催。


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日本を代表する女流画家 高雅優腕な作風

奥原晴湖(おくはらせいこ)1837〜1913
 古河城下の藩士池田家に生まれる。早くから漢字の素養を身につけ関宿藩奥原家の養女となり、江戸で絵を学び上野に画塾を開く。木戸孝允・山内容堂らの後援をうける。 
 のち埼玉県熊谷に移り、女流南画家として独自のスタイルを確立。
 近年、鷹見泉石記念館の奥に、画室(繍水草堂)を熊谷市から復元移築しました。


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古河は茨城の小京都と呼ばれ古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。
古河公方公園(古河総合公園)では、約1500本の桃の花が美しく咲きそろう「桃まつり」が開催されます。
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