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自主制作映画「仁光の受難」

【撮影月】 平成24年10月
【撮影場所】古河公方公園(古河総合公園)古民家


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上杉香緒理「越後母慕情PV」

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【撮影月】 平成24年5月
【撮影場所】古河公方公園(古河総合公園)古民家
【発売日時】平成24年6月20日(水)発売


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長谷観音

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長谷観音

■駅から
約1.5Km 徒歩19分
■所在地
長谷町5-1
TEL0280-22-2366

古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので、累代古河城主が祈願をこめたところとされています。背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されています。日本三大長谷のひとつです。

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雀神社

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雀神社

■駅から
約1.7Km 徒歩21分
■所在地
宮前町4-52
TEL0280-22-0477

市の西北端、渡良瀬遊水地のほとりにあります。約1,100年前に出雲大社から勧請したものと言われ、古河公方(足利成氏をはじめ)歴代の古河城主が厚く尊崇し、五穀豊穣、家内安全を祈願してきました。夏の祭礼にはいまも「ささら獅子舞」が奉納されています。


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芳流閣の決闘 舞台は古河城

 皆さん良くご存じの「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「梯」の八つの珠が飛んでいき、やがてそれぞれの珠を持つ8犬士、犬塚信乃、犬川荘助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角の活躍を描く物語。
 この「南総里見八犬伝」の有名なシーン、「芳流閣の決闘」の舞台は古河城がモデルと言われています。
 芳流閣の決闘は、八犬士の一人、犬塚信乃が古河公方の成氏に名刀村雨丸を返しにくるシーンで始まります。しかし村雨丸はすりかえられ窮地に陥った犬塚信乃は、芳流閣と称する城の大屋根へと追いつめらます。
 そこへ現れた犬飼現八と壮絶な決闘をし城下の利根川へ落ちた二人は、互いの「信」「孝」の珠を見せ合い、宿縁を悟るといいます。
 八犬伝に登場する芳流閣は「利根川に沿う遠見の三層楼」とあります。成氏の城内に芳流閣という建物が存在していたとはみられていませんが、江戸時代の作者滝沢馬琴が古河城の櫓をモデルにしたのではないかといわれています。


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桃花ゾーン

1500本が咲き誇る桃林

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桃林と古河城主、土井利勝
 江戸時代初期、古河城主土井利勝(どいとしかつ)が、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ、古河に送って、農民に育てさせたのが始まり。それは、領民があまりに貧しかったので、生長が早い桃の実を食用に、剪定(せんてい)した技を薪に、花を暮らしの潤いにさせるためでした。
 明治時代には、花見シーズンに臨時列車が運行されるほど賑わいました。古河公方公園(古河総合公園)の開園を機に、花桃(花を観賞するための桃)を植えて桃林を復活させたのです。

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それぞれの花桃を楽しむ
 現在では、総合公園内での一番の見どころです。矢口、源平、菊桃、寿星桃など1,500本の桃の花が咲き誇り、まさに桃源郷を思わせます。
 公園内の花桃の大半は矢口です。その中に黒川矢口が咲いています。北西のほうには源平、北のほうには菊桃と寒白、東のほうでは寿星桃を楽しむことができます。

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徳源院跡(県指定文化財)

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ここは寺院跡で、もと「興王山徳源院(こうおうざんとくげんいん)」という鎌倉円覚寺末(かまくらえんがくじまつ)の臨済禅寺(りんざいぜんじ)のあった所です。現在は、この墓地のみが残っています。
 『古河志(こがし)』によると、古河公方五代の足利義氏(天正10年3月26日没)の開墓で、香雲院(こううんいん)といいましたが、元和6年(1620)5月6日義氏の一人娘「氏女(うじひめ)」の卒去により、その法号である「徳源院」と改められたといいます。
 義氏の墓と、天寿院(てんじゅいん)と刻した宝篋印搭(ほうきょういんとう)の喜連川河内守義親(きつれがわかわうちのかみよしちか)(氏女の子・寛永4年7月3日没)の墓と、七地蔵を刻んだ石幢と数基の墓石を残しています。
 長谷(はせ)の永仙院(ようぜんいん)、牧野地(まきのじ)の松月院(しょうげついん)と共に、古河公方方開基の三ヶ寺の一つで往時をしのぶ史跡です。

その他のスポット
●元屋敷の四阿・・・四阿(あずまや)です。
●ラン搭四阿・・・・四阿(あずまや)です。
●フジ棚・・・・・・このゾーンにフジ棚が3箇所あります。
●中山台・・・・・・秋にはコスモスが楽しめます。


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公方様の森周辺

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公方様の森

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鎌倉公方足利利成氏(あしかがしげうじ)は、1445年古河に移り、この台地に館を構えました。以降、「古河公方」と呼ばれ、五代にわたり約130年間、北関東に一大勢力を誇りました。古河公方館趾の石碑の東西には、当時の堀と土塁が、跡をとどめています。
周囲を沼に囲まれたイヌシデやコナラを主体とした雑木林には、水面に反射した光が、明るく差し込みます。早春にはアカゲラの木をつつく音がこだまし、夏には緑陰を楽しむ人が訪れ、紅葉の頃にはサクサクと落ち葉をふみしめる音が小気味よく響きます。

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旧中山家(県指定文化財)

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この民家は、もと中山太郎氏(茨城県岩井市)の所有であったが氏の寄贈により当地に移築したものです。
 中山家は、武士の出身で、江戸時代初期、辺田村に帰農したといわれ、代々辺田村の組頭などを勤めた旧家です。
 この住宅は、猿島地方に多く見られる直屋といわれる型で桁行17.3m、梁間10.55mという大型農家に属しています。
 住宅の建築年代については確証を欠きますが、解体修理中に発見された床板裏面の墨書に『延宝二歳寅二日・・・』とあったことから、延宝二年(1674)に建てられた可能性が強いそうです。
 幾度かの改造及び補修を経てきていますが、幸い軸部は当初の状態で残存し、保存状態も良好で猿島地方の大型農家の典型として、昭和48年茨城県の指定を受けました。

旧飛田家(国指定文化財)

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この民家は、もと飛田徳有氏(茨城県久慈金砂郷村)の所有でしたが、事情により当地に移築したものです。
 飛田家の由緒については詳らかでなく、初代夫婦のものと思われる位牌に延享元年(1744)及び寛延元年(1748)の没年が記されており、この住宅の建立年代は、構造手法等などから考えあわせると、18世紀前半と推測されます。
 この住宅はいわゆる常陸地方によく見られる曲がり屋であり、別棟形式の民家との関連を知るために貴重な住宅です。
 幾多の改造及び補修を経てきていますが、構造、平面等にはそれほどの変化もなく、よく旧状態を残していることと、現在茨城県下で知られる曲がり屋形式の農家の中で最も古いものとして、昭和43年国の指定を受けました。

古河公方館跡(県指定文化財)

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この地は、古河公方足利成氏以来、古河城の別館のあった跡で、「鴻巣御所」ともよばれ、旧御所沼に突き出た半島の中央部に当たります。
 成氏が、鎌倉から古河に移ったのは、康正元年(1455)でありますが、2年後の長禄元年(1457)修築の成った古河城へ入りました。それ以来、成氏、政氏(まさうじ)、高基(たかもと)、晴氏(はるうじ)、義氏(よしうじ)に至る五代120余年の間「古河公方」の居城として、古河城は東国一円に重要な位置を占めていました。
 大正初期に、古河城跡が渡良瀬川改修工事のため、大部分が河川敷となってしまいました。いま、残存するこの「鴻巣御所跡」は、往時をしのぶ史跡として意義深いものがあります。
 この館跡碑の西と東には、当時の堀と土塁の跡をとどめています。




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古河公方  足利成氏(しげうじ)

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古河公方公園(古河総合公園)内にある古河公方館跡

関連施設・史跡
古河公方館跡
■駅から
約3Km 徒歩40分
■所在地
古河公方公園(古河総合公園)
鴻巣字中山399-1
TEL0280-47-1129


古河地方は、鎌倉時代、源頼朝の家臣、下河辺氏がこの地を支配し、幕府の北の守りとして軍事上政治上にも重要な地点として栄えてきました。やがて室町幕府の時代となり、足利尊氏(たかうじ)の子基氏(もとうじ)が関東かんれい管領(鎌倉公方(くぼう))となって、関東を支配していましたが将軍家との折り合いが悪くなり、四代持氏(もちうじ)が永享の乱で将軍義政と争い、一度敗れたが許され、その子成氏(しげうじ)が再び管領となったものの、執事上杉憲忠と対立、追われて1455年に鎌倉から古河に居城し、古河公方と称しました。結城・佐竹氏を始め関東の豪族の支持を受けたので、形勢は一変、古河は関東の政治文化の中心地となり、古河公方時代が5代128年にわたって続きました。歴代の公方達は、古河に鎌倉文化を移入しました。その規模は鎌倉には及ばなかったが、古河の文化も大いに進み、文化人も数多く集まり、中でも医聖と呼ばれた医師田代三喜や当代一の連歌師と言われた猪苗代兼栽などは、この地に文化興隆をもたらした功労者と言えます。


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足利義氏(よしうじ)とその子氏女(うじひめ)

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義氏の墓所徳源院

時代も干余曲折を経て、戦国の世に入り、関東も戦乱に明け暮れ、5代義氏の代になると、後盾となっていた北条氏も秀吉に亡ぼされ、公方の名を僅かながら、保ち得た状況となってしまいました。
 1582年、義氏が歿すると、男の嗣子がないために、一世紀を越えた古河公方時代も、5代をもって終わりを告げました。
 義氏には、女子一人が在り、これを氏女(うじひめ)と言いました。氏女は鴻巣の公方やかた館に居を置いていましたが、秀吉は、公方の名跡の絶えるのを惜しみ、小弓義明の孫國朝に氏女を娶らせ、喜連川の地五千石を給し、その再興をはからせました。國朝の病死により、秀吉の命で弟頼氏に氏女を配し、氏女は、義親を生みました。公方の血統は斯くして喜連川家に継がれていきました。今、鴻巣公方館跡の辺りは、古河公方公園(古河総合公園)として残され、昔の面影を僅かにとどめる自然公園として賑わいを見せています。

関連施設・史跡
徳源院
■駅から
約3Km 徒歩40分
■所在地
古河公方公園(古河総合公園)
鴻巣399-1
TEL0280-47-112


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古河は茨城の小京都と呼ばれ古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。
古河公方公園(古河総合公園)では、約1500本の桃の花が美しく咲きそろう「桃まつり」が開催されます。
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