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長谷観音

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長谷観音

■駅から
約1.5Km 徒歩19分
■所在地
長谷町5-1
TEL0280-22-2366

古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので、累代古河城主が祈願をこめたところとされています。背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されています。日本三大長谷のひとつです。

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渡良瀬遊水池遠望

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 広大な自然が広がる渡良瀬遊水池では、富士、浅間、赤城、白根、男体、大真名子、女峰などの山々が一望でき時には榛名、妙義も見られる絶景ポイントです
 
 三国橋から南方向の堤防上に古河城跡の表示があります。古河城は曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の舞台の一つです。古河城芳流閣上の決闘は、前半部のクライマックスとして有名だが、古河城の櫓をモデルにしたのではないかといわれています。
 眼前に広がる本州最大といわれる約33kuの渡良瀬遊水地は、日本の公害の原点といわれる足尾鉱毒事件によって出現しました。数々の文学作品の舞台ともなっています。江戸川乱歩賞受賞作、小林久三「暗黒告知」伊藤野枝「転機」荒畑寒村「谷中滅亡史」永井路子「わが町わが旅」などです。
 また堤防上には、足尾鉱毒事件に生涯を捧げた「田中正造遺徳之賛碑」があり、明治天皇への直訴状が刻まれています。

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雀神社

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雀神社

■駅から
約1.7Km 徒歩21分
■所在地
宮前町4-52
TEL0280-22-0477

市の西北端、渡良瀬遊水地のほとりにあります。約1,100年前に出雲大社から勧請したものと言われ、古河公方(足利成氏をはじめ)歴代の古河城主が厚く尊崇し、五穀豊穣、家内安全を祈願してきました。夏の祭礼にはいまも「ささら獅子舞」が奉納されています。


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正定寺(しょうじょうじ)

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正定寺

■駅から
約0.9Km 徒歩11分
■所在地
大手町7-1
TEL0280-22-1273

江戸時代初期、家康・秀忠・家光の三代に仕えた古河城主・土井利勝の開いた寺で、土井家歴代の墓所です。また、四代将軍家綱の母・お楽の方の墓、芭蕉塚など歴史的文化財に富んでいます。


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隆岩寺

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隆岩寺

■駅から
約1Km 徒歩13分
■所在地
中央町1-7-39
TEL0280-22-2001


徳川時代最初の古河城主小笠原秀政が、岡崎三郎信康の菩提のために開基した寺です。信康は家康公が18歳の時、正室・瀬名姫(築山御前)との間に生まれた徳川家康の嫡男です。天正 7年(1579)織田信長の命により、母の築山御前とともに命を奪われました。信康の長女の登久姫(峯高院)は小笠原秀政に嫁いでおり、境内には信康の供養塔があります。


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杉並通り(旧武家屋敷)

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旧武家屋敷

■駅から
約0.8Km 徒歩10分
■所在地
横山町1丁目7



篆刻美術館を出て、ちょっと西に行き、狭い道を北に歩いて行くと、江戸時代が偲ばれる風格ある旧武家屋敷の土塀の続く通りに出ます。


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関東有数の城郭 古河城

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 古河城の創設時期は定かではないが、鎌倉公方、足利成氏が鎌倉から古河に座を移した15世紀中期以降、史料のなかに古河城という表記がみえることから、この時期に従来の陣から城としての整備がおこなわれたとみられています。
 その後、小田原北条氏が滅亡し、徳川家康の関東入部にともない古河城には徳川の譜代大名小笠原氏が入部し城の再建に勤めました。江戸期を通して11家が12回にわたって入れ替わり在城しています。江戸初期の歴代城主は数万石でしたが、奥平家の11万石・永井家の7万石を経て城下も拡張整備され、さらに土井利勝の16万石時代には本丸に御三階櫓が建造され城下の形が整ったとみられます。

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芳流閣の決闘 舞台は古河城

 皆さん良くご存じの「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「梯」の八つの珠が飛んでいき、やがてそれぞれの珠を持つ8犬士、犬塚信乃、犬川荘助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角の活躍を描く物語。
 この「南総里見八犬伝」の有名なシーン、「芳流閣の決闘」の舞台は古河城がモデルと言われています。
 芳流閣の決闘は、八犬士の一人、犬塚信乃が古河公方の成氏に名刀村雨丸を返しにくるシーンで始まります。しかし村雨丸はすりかえられ窮地に陥った犬塚信乃は、芳流閣と称する城の大屋根へと追いつめらます。
 そこへ現れた犬飼現八と壮絶な決闘をし城下の利根川へ落ちた二人は、互いの「信」「孝」の珠を見せ合い、宿縁を悟るといいます。
 八犬伝に登場する芳流閣は「利根川に沿う遠見の三層楼」とあります。成氏の城内に芳流閣という建物が存在していたとはみられていませんが、江戸時代の作者滝沢馬琴が古河城の櫓をモデルにしたのではないかといわれています。


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古河城追手門跡

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古河城追手門跡

城の大手(正面)にあたり、敵の正面に攻めかかる軍政(追手)を配置することから、城の正門(表門)のことを大手門とか追手門と呼んでいました。
 当該地の北に位置する東西方面の大通りを境に、北側は武家屋敷となっており(片町)、南側は城の堀と五間(約9メートル)ほどの高さの土塁が構築されており、追手門に入るには堀にかかる橋を渡りました。堀の水深は二尺(約60センチ)、堀幅は七間(約13メートル)とも一六間(約30メートル)ともいわれています。
 門は第一・第二門からなり、その間に枡形(正方形)の空間をもうけた形態でした。まず切妻屋根に、おそらく竪桟張りであったかと思われる扉をもった高麗門(第一の門)を入ると、そこは土塁で囲まれた枡形の空間で、右手にいかにも城門らしく豪壮な造りの第二門がありました。その第二の門は櫓門と呼ばれるもので、土塁と土塁の間に渡櫓を渡して、下を門とし上を櫓(矢倉)とする形式でありました。
 門の創建は、慶長年間(1596〜1615)の松平(戸田)康長のときであったといわれています。
 


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歴史探訪

東国一円の重要拠点だった古河
古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。足利氏とのつながりも深く、中世東国社会の政治文化において重要な位置を占めてきた古河公方の拠点として知られています。

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徳源院跡 臨済宗で鎌倉円覚寺の末寺で古河公方が開其した三ヶ院のひとつ

古河公方と称した足利成氏
古河公方の起こりは、1338年京都に幕府を開いた将軍足利尊氏が関東地方を治めるために子の基氏を鎌倉府の長官である鎌倉公方として派遣しましたが、その後、鎌倉公方4代持氏が京都の将軍家と対立、1439年6代将軍義教と一戦を交え、その結果、鎌倉公方は破れ、持氏は自害させられました。その後、生き残った持氏の子成氏が許されて鎌倉公方に就任しましたが、再び幕府に反旗を翻し、1445年鎌倉から古河の地に座を移したことによります。
 爾来120年余りにわたって古河公方と称し、東国一円の重要な位置を占めてきましたが、現在も公方ゆかりの寺院や史跡が残っており、特に古河公方足利氏の古河城の別館であった「公方館跡」や古河公方開基の「徳源院跡」一帯は、「古河公方公園(古河総合公園)」として、自然や史跡探訪の地となっており、市民に親しまれています。


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歴史と伝統の町

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鎌倉時代から120年余にわたる古河公方時代を経て、江戸時代には徳川譜代大名の城下町であった古河は、日光奥州街道の要地として栄えました。
現在、残念ながらお城は残っていません。しかし、その城外にある歴史博物館や数多く残された史跡が歴史を語ってくれます。
それらの史跡見学などを無料で案内してくれる、ボランタリーガイドさんと一緒に、ゆっくりと歩いてまわるコースも大講評となり、多くの方々が古河を訪れるようになってまいりました。


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古河の年表

旧石器〜縄文時代

近くまで東京湾が入り込んでいた、古代の古河。人々は、利根川、渡良瀬川、思川の3つの川の近くに集まって暮らしていました。2万年前の先土器時代の遺物や縄文遺跡などがそれらを裏付けます。


奈良時代

万葉集では「麻久良我の許我の渡りのから楫の音高しもな寝なへ児ゆゑに」(巻十四)とあり、古河付近のどこかに船渡しがあったことを想像させてくれます。


平安時代

「こが」という地名は、平安時代末期あたりからその名を文献で見つけることができます。吾妻鏡には、源頼朝に背いた常陸の志田義広の軍勢を下河辺氏が「古我・高野等渡」を固めて討ち止めた、とあります。


鎌倉時代

源頼朝の御家人・下河辺行平(藤原秀郷の子孫)が古河に始めて城を築いたと伝わります。


南北朝時代

南北朝時代から「古河」という文字で表記されるようになりました。


室町時代

当初鎌倉にあった関東公方が、室町時代の康正元年(1455年)、足利成氏の代に室町幕府と対抗し下総古河に移り、古河公方(こがくぼう)として知られるようになりました。以来、5代にわたり130年余りを統治しました。


江戸時代

徳川幕府により譜代大名11家がめまぐるしく交替し、古河城は徳川将軍が日光東照宮参拝の折の宿泊場所にもなりました。また、奥羽街道・日光街道の宿場町としても発展しました。現在も市内各所に武家屋敷や商家の町割、由緒ある神社仏閣があって、当初の風格がしのばれます。


  

明治・大正時代

製糸業が興り、昭和前半まで古河の代表的な産業として続き、「糸の町」と呼ばれるほど活況を呈しました。古河城は、明治・大正年間の渡良瀬川改修工事のため取り壊されてしまいました。


昭和時代

東京へ60kmという交通の便利性もあり、茨城県西部、栃木県南部、埼玉県北部を商圏とした商業都市として、現在に至るまで発展しています。昭和38年(1963年)に首都圏市街地域開発地域の指定をうけ、調和のとれた街づくりが着々と進められています。


 




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頼政神社

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頼政神社

■駅から
約1.3Km 徒歩16分
■所在地
錦町9-5



錦町(観音寺町)
その名が表す通り、源三位頼政が祭られています。治承4年(1180年)宇治で平家との戦いに敗れ自刃した源頼政の首を従者がたずさえて逃れ、古河に葬ったものと言い伝えられています。もともと古河城内頼政郭にありましたが、渡良瀬川改修工事のため、現在地・旧古河城最北端の土塁の上に移されました。


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神宮寺

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神宮寺

■駅から
約0.6Km 徒歩8分
■所在地
横山町1-1-11
TEL0280-22-1712

文安3年(1446年)に良宥上人が鎌倉で開いた寺で、当時の鎌倉公方足利成氏の古河入りに伴い、古河に移りました。室町時代の作である十一面観世音菩薩坐像が有名です。


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古河公方  足利成氏(しげうじ)

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古河公方公園(古河総合公園)内にある古河公方館跡

関連施設・史跡
古河公方館跡
■駅から
約3Km 徒歩40分
■所在地
古河公方公園(古河総合公園)
鴻巣字中山399-1
TEL0280-47-1129


古河地方は、鎌倉時代、源頼朝の家臣、下河辺氏がこの地を支配し、幕府の北の守りとして軍事上政治上にも重要な地点として栄えてきました。やがて室町幕府の時代となり、足利尊氏(たかうじ)の子基氏(もとうじ)が関東かんれい管領(鎌倉公方(くぼう))となって、関東を支配していましたが将軍家との折り合いが悪くなり、四代持氏(もちうじ)が永享の乱で将軍義政と争い、一度敗れたが許され、その子成氏(しげうじ)が再び管領となったものの、執事上杉憲忠と対立、追われて1455年に鎌倉から古河に居城し、古河公方と称しました。結城・佐竹氏を始め関東の豪族の支持を受けたので、形勢は一変、古河は関東の政治文化の中心地となり、古河公方時代が5代128年にわたって続きました。歴代の公方達は、古河に鎌倉文化を移入しました。その規模は鎌倉には及ばなかったが、古河の文化も大いに進み、文化人も数多く集まり、中でも医聖と呼ばれた医師田代三喜や当代一の連歌師と言われた猪苗代兼栽などは、この地に文化興隆をもたらした功労者と言えます。


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徳川三百年の智臣  土井利勝

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正定寺で管理されている肖像画

関連施設・史跡
正定寺 土井家歴代の墓所
■駅から
約0.9Km 徒歩11分
■所在地
大手町7-1
TEL0280-22-1273

家康が江戸幕府を開き、天下の政治をとるようになると、古河は奥州街道筋と水路の要地となり、北の守りとして重要な位置を占めるようになりました。そのため、古河藩主には有力な譜代大名が配置されました。幕末までに11家 12回の交替がありましたが、皆徳川家と深い関係のある譜代大名で、幕府の官僚に列し、大老や老中、大阪城代などの重職に就任したものが大勢います。中でも土井家は、2期12代わたり、古河城主として城下の発展に寄与し、古河の繁栄の基を築きました。
特に、利勝は、・土井の殿様、一六萬石よ・と甚句にも歌われている程、歴代城主の
中でも最高の禄高で、三階櫓などを築いて古河城を最大に拡張し、幕閣最高の大老職まで勤め、徳川三百年の確固たる基礎を築いた智臣として、歴史上の有名な人物でもあります。
市内の正定寺は、利勝開基によるもので、今は土井家の廟所になっています。


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万葉歌碑

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万葉歌碑

■駅から
西口駅前
■所在地
本町1丁目

駅西口を出ると、歩道右側に大きな自然石が、ドッシリと据えられています。「万葉の歌碑」です。万葉集巻十四、東歌の中にあるこの地を詠んだ歌二首の一つです。古河の里が、古くから川ぞいを中心に開けた抒情豊かな文化の地であることを示しています。書の軍毫は書家故大久保翠洞氏によります。因みに、もう一首の歌碑は、雀神社わきの渡良瀬提の上に建っており、その書の軍毫は篆刻家故生井子華氏によるものです。


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本陣跡

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■駅から
約0.3Km 徒歩4分
■所在地
中央町1丁目2-37付近

駅前通りを西に歩いて行くと、旧日光街道に突き当たります。常陽銀行を右に見て、正面に商店街ジョイパティオがあり左角に足利銀行があります。ジョイパティオの入口に赤い電話ボックスがあり、その陰にひっそりと「本陣跡」の石碑が立っています。ここに、昔諸大名が参勤交代や日光参詣等の途中、古河に泊まる時に宿とした建物があった所です。この辺りは、日光街道より古河城への入り口の地点で、城下町古河の重要な辻であり、旅人の往来のはげしい一番賑わった所でした。


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高札場跡

■駅から
約0.3Km 徒歩4分
■所在地
本町2丁目5-30付近

街道を狹んで、足利銀行の前に若野屋呉服店というお店があり、その脇に「史跡高札場跡」の石碑が立っています。江戸時代、藩や幕府のおふれ書「高札」を立てた場所です。庶民が集まって高札を見ている往時の状景が目に浮ぶようです。


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古河城お茶屋口跡

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■駅から
約0.8Km 徒歩10分
■所在地
中央町3丁目6-1

将軍の日光参詣の宿泊・休憩は、岩槻・古河・宇都宮の三城を原則としていました。古河城お茶屋口は、古河藩主土井利勝が三代将軍家光の参詣の際もてなすための茶屋を置いたことにはじまるといわれています。参勤交代や日光参詣で通行する格式の高い大名もここで迎え、相手も挨拶をしていくきまりでした。相手がそれ以下の場合は肴町の御馳走番所で挨拶を受けたのです。


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古河は茨城の小京都と呼ばれ古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。
古河公方公園(古河総合公園)では、約1500本の桃の花が美しく咲きそろう「桃まつり」が開催されます。
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