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古河駅西口

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観光案内所

 JR古河駅改札口を出てすぐ左手に観光案内所があるので立ち寄ってみましょう。各種パンフレットが用意されており、観光ガイドが午前10時から(土・日・祝祭日は午前10時から)午後3時まで詰めているので、いろいろ情報が入手できます。
 改札を出たら左方向に進むと西口に出ます。国土交通省の大きな河川情報板が目に入り、その下に万葉歌碑があります。

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万葉歌碑

逢わずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ舟に君も逢わぬかも

 万葉集巻十四の相聞歌に、古河の地名と関係あると思われる歌が2首詠まれていますが、その内の1首です。あと1首は渡良瀬川堤防上にあります。
 この歌から当時の古河は、河川交通の盛んなところで、人々の往来が多く栄えていたことが読み取れます。


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歴史探訪

東国一円の重要拠点だった古河
古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。足利氏とのつながりも深く、中世東国社会の政治文化において重要な位置を占めてきた古河公方の拠点として知られています。

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徳源院跡 臨済宗で鎌倉円覚寺の末寺で古河公方が開其した三ヶ院のひとつ

古河公方と称した足利成氏
古河公方の起こりは、1338年京都に幕府を開いた将軍足利尊氏が関東地方を治めるために子の基氏を鎌倉府の長官である鎌倉公方として派遣しましたが、その後、鎌倉公方4代持氏が京都の将軍家と対立、1439年6代将軍義教と一戦を交え、その結果、鎌倉公方は破れ、持氏は自害させられました。その後、生き残った持氏の子成氏が許されて鎌倉公方に就任しましたが、再び幕府に反旗を翻し、1445年鎌倉から古河の地に座を移したことによります。
 爾来120年余りにわたって古河公方と称し、東国一円の重要な位置を占めてきましたが、現在も公方ゆかりの寺院や史跡が残っており、特に古河公方足利氏の古河城の別館であった「公方館跡」や古河公方開基の「徳源院跡」一帯は、「古河公方公園(古河総合公園)」として、自然や史跡探訪の地となっており、市民に親しまれています。


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古河の年表

旧石器〜縄文時代

近くまで東京湾が入り込んでいた、古代の古河。人々は、利根川、渡良瀬川、思川の3つの川の近くに集まって暮らしていました。2万年前の先土器時代の遺物や縄文遺跡などがそれらを裏付けます。


奈良時代

万葉集では「麻久良我の許我の渡りのから楫の音高しもな寝なへ児ゆゑに」(巻十四)とあり、古河付近のどこかに船渡しがあったことを想像させてくれます。


平安時代

「こが」という地名は、平安時代末期あたりからその名を文献で見つけることができます。吾妻鏡には、源頼朝に背いた常陸の志田義広の軍勢を下河辺氏が「古我・高野等渡」を固めて討ち止めた、とあります。


鎌倉時代

源頼朝の御家人・下河辺行平(藤原秀郷の子孫)が古河に始めて城を築いたと伝わります。


南北朝時代

南北朝時代から「古河」という文字で表記されるようになりました。


室町時代

当初鎌倉にあった関東公方が、室町時代の康正元年(1455年)、足利成氏の代に室町幕府と対抗し下総古河に移り、古河公方(こがくぼう)として知られるようになりました。以来、5代にわたり130年余りを統治しました。


江戸時代

徳川幕府により譜代大名11家がめまぐるしく交替し、古河城は徳川将軍が日光東照宮参拝の折の宿泊場所にもなりました。また、奥羽街道・日光街道の宿場町としても発展しました。現在も市内各所に武家屋敷や商家の町割、由緒ある神社仏閣があって、当初の風格がしのばれます。


  

明治・大正時代

製糸業が興り、昭和前半まで古河の代表的な産業として続き、「糸の町」と呼ばれるほど活況を呈しました。古河城は、明治・大正年間の渡良瀬川改修工事のため取り壊されてしまいました。


昭和時代

東京へ60kmという交通の便利性もあり、茨城県西部、栃木県南部、埼玉県北部を商圏とした商業都市として、現在に至るまで発展しています。昭和38年(1963年)に首都圏市街地域開発地域の指定をうけ、調和のとれた街づくりが着々と進められています。


 




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万葉歌碑

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万葉歌碑

■駅から
西口駅前
■所在地
本町1丁目

駅西口を出ると、歩道右側に大きな自然石が、ドッシリと据えられています。「万葉の歌碑」です。万葉集巻十四、東歌の中にあるこの地を詠んだ歌二首の一つです。古河の里が、古くから川ぞいを中心に開けた抒情豊かな文化の地であることを示しています。書の軍毫は書家故大久保翠洞氏によります。因みに、もう一首の歌碑は、雀神社わきの渡良瀬提の上に建っており、その書の軍毫は篆刻家故生井子華氏によるものです。


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万葉歌碑

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 雀神社の境内を上がった堤防上にあります。昭和60年3月14日除幕、生井子華揮毫によります。

麻久良我の許我の渡りのからかじの音高しも寝なへ児ゆえに

万葉集巻14、二首あるうちの一首だが、古河の地名がはじめて文学の上にあらわされたとされています。


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古河は茨城の小京都と呼ばれ古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。
古河公方公園(古河総合公園)では、約1500本の桃の花が美しく咲きそろう「桃まつり」が開催されます。
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