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田代三喜

田代三喜木像
田代三喜(たしろさんき)は、室町・戦国時代を代表する医師である。生年は寛正6年(1465)、没年は天文13年(1544)あるいは同6年(1537)ともされ、諸説ある。甲斐の永田徳本(ながたとくほん)と並び、当時の日本における名医であった。のちに豊臣・徳川に医師として仕える、曲直瀬家代々の初代道三も、三喜の高弟である。

 三喜の経歴は、明らかではないが、のちに編さんされた伝記によれば、武蔵国越生(現在の埼玉県越生町)に生まれ、15歳のときに医師を志して、臨済宗妙心寺派の僧となったという。そのころ、足利学校で研鑽を積んで、長享元年(1487)、明(中国)に渡航し、月湖(げっこ)という医師に師事し、李東垣(りとうえん)と朱丹渓(しゅたんけい)が主導する自然哲学的な李朱医学を、12年間学んで帰国したとされる。  帰国後は、鎌倉円覚寺の江春庵、足利と住まいを変え、永正6年(1509)古河公方足利氏に招かれて古河に住んだ。「古河の三喜」「医聖田代三喜」と称され、その医術にあやかろうとする人々も多く、連歌師猪苗代兼載(いなわしろげんざい)は、中風の治療のため古河へやってきて、のちに公方足利政氏と歌を通じて交歓するきっかけとなった。

 また、還俗した田代三喜より医学教育を受けた医師曲直瀬道三(まなせどうさん)は、門人として三喜の志を後継する。特に三喜の晩年に道三が口述筆記をしたという『涙墨紙』は、道三が感極まって流した涙で墨をすってしるしたものと伝えられているものである。道三は、天皇・将軍・諸大名たちを治療することで名声を得たのみならず、三喜より学んだ医学を元にして、京都において啓迪院(けいてきいん)という医学校を設立し、医学教育を行った。田代三喜がもたらした最大の功績は、「僧侶ではなく、医師が医学生や研修医を直接教育する」という仕組みを、道三とともに確立したことにある。医学が宗教から分離することが、医学の近代化の第一歩であるが、その医学の近代化の先鞭をつけたのが田代三喜である。医学教育の基本となる医学は、漢方医学からドイツ医学へ、そして現代医学と時代と共に変遷するが、医師が医学生、研修医を直接教育するというスタイルは、現代まで受け継がれている。

 三喜没後は、古河公方ゆかりの永仙院に葬られたが、墓所は明らかではなく、その墓印にと松が植えられた。のちにその松は枯死してしまうが、昭和7年(1932)、その地に「医聖田代三喜供養碑」の建立とともに松が植樹された。

一向寺には、三喜の木像が祀られている。江戸時代の医書『本朝医談』に「古来名医多かれど、像祀するは昔時鑑真、近世にては三喜也」とあり、医師の木造が作られたのは、古くは奈良唐招提寺の鑑真和上像であり、三喜の像はこれにならぶものとしている。この田代三喜翁木像は、江戸時代後期に一向寺に寄進されたもので、明治34年(1901)に焼失。昭和8年(1933)に復刻発願し、昭和12年(1937)に開眼供養。平成30年(2018)に健康祈願・学業成就祈願の撫で仏として石仏と六角堂が完成した。自分が患っているところの像の部分をなで、その手で患部をなでると病気が治るという。また、医療関係の合格祈願に特にご利益が期待できる。
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