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永仙院跡

永仙院(ようぜんいん)は、茨城県古河市桜町(長谷村)にあった臨済宗の寺院。鎌倉円覚寺の末寺。明治初期に廃寺となり、現在は跡地が文化財・史跡として保存されている。山号を金蔵山、院号を永仙院という。表記は「永僊院」が正字だが、略字の「永仙院」が常用されている。古河公方ゆかりの寺院。

かつて、初代古河公方・足利成氏開基、春貞周乾開山により、成氏法号の「乾享院」と称した鎌倉円覚寺系列の寺院が古河にあった(『円覚寺史』)。これがのちに、第四代足利晴氏の菩提寺として晴氏法号の「永仙院」に改称、開山も季竜周興に改められたと考えられている。

歴代の住持は政治分野で活躍したものが多く、戦国時代の季竜周興は古河公方晴氏・義氏の側近となり、江戸時代初期にも三伯玄伊が円覚寺156世、天甫碩円が円覚寺157世となって、ともに鎌倉円覚寺の再建に尽力した。

江戸時代後期に書かれた『許我志』・『古河志』によれば、成氏から義氏までの歴代古河公方の位牌が置かれ、公方家が寄付した足利尊氏の偃月刀(ナギナタ)もあったが、貧窮のため売り払われたという。『古河志』では、徳源院・松月院とともに、古河の「足利開基三ヵ院」と称されていたと紹介されている。江戸時代後期は無住持の状態が続き、明治4年には廃寺となって、栃木市藤岡町蛭沼・山王寺に合併された。

現在は跡地が市の文化財(史跡)に指定され、永仙院歴代住持の墓や、古河公方家の侍医で「医聖」と呼ばれた田代三喜の供養碑などがある。ここにはかつて、三喜の墓の目印とされた松が植えてあったとされる。他にも、赤穂浪士の一人吉田忠左衛門兼亮の長女「さん」とその夫である本多家家臣の伊藤治興の墓が残されている。

【住 所】茨城県古河市桜町21